ガンに生かされて
「ガンに生かされて」飯島夏樹
2007年8月1日初版発行(新潮社)
あらすじ
生きるのに時があり、死ぬのに時がある……2005年2月28日23時50分、38歳の彼は妻と幼い子供4人を残してついに旅立った。末期の肝細胞ガンの宣告を受けた世界的プロウィンドサーファーが、最期の場所としてハワイを選び移住。家族との間に生れた深い心の交流に、「ガンになってよかった」と思って過ごした日々。余命宣告機嫌を超えて188日、死の間際まで続けた命の記録
こんな人におすすめ
〇幸せな死・そして生について考えたい人
〇リアルな家族との闘病生活に触れたい人
この本はノンフィクションであり、癌により若くして命を落とした飯島氏が、亡くなる直前まで書き続けた戦記です。
と一言でまとめてみたかったのですが、これは戦記ではないのかもしれません。勿論病気に抗い迫りくる死期に向かい続けているのですが、「闘う」という言葉が適切なのか分からないのです。もしかしたら「受容」や「共存」のほうが合っているのかもしれません。
それほどに作者の飯島氏は、闘癌生活を踏まえ自身の人生を見つめ新たな価値を前向きに見出していました。
最期の瞬間に近づくにつれありのままの心情をさらけだしながら自身の思いを紡いでおり、尊敬の念を抱きました。
そして特にこの本では多くのセリフが僕の心に突き刺さりました。言葉の実感としての重さもあったと思います。それらのいくつかを紹介させてください。
「ああ、終末期肉腫の病人でも、自己アピールは必要だな。自分の病状や心の中のことを理解してもらうために、そしてより良く助けてもらうために、相手に分かってもらえる方法で伝えることがとっても重要だ。察してもらうのを待ってちゃいけない」p248
これは飯島氏が闘病の傍ら執筆活動を続け頑張る中で、身体的に絶望状態の姿をみて愕然とした妻を見たときに思ったことだそうです。
これって闘病だけじゃなくて普通の生活でも当てはまることだと僕は考えます。
ある程度のことを自分で処理しきれてしまうと他者からは尊敬されるかもしれません。
ただ、そうなると自分をマネージメントする人が自分だけになってしまいます。
調子が良い時はそれでよいかもしれませんが、もし凹んでしまうときが訪れるなどすると、「支え」がどこにもなくなってしまいます。この場合、他者が支えになるどころの話ではなく、自身の像を覆したくがないために余計に人を頼れず、そんな自分がバレないよういっそ距離を取ってしまう。極端な話し、自分に余裕がなくなれば他者を敵視すらしてしまうかもしれません。
それで、周りの人が自分の事を理解してくれないと嘆くのは、お門違いかもしれません。
もっと人は人に対して「自己アピールをする」ことが大事なんじゃないかなと思います。勿論、いきっていると言われたりしちゃうこともあるかもですが、「誤解無く他者に伝わるように」するのはとても大事なことだと思うんです。
ちなみにポイントとしては「伝える」ではなく「伝わる」です。
研究の発表や就職活動でよく言われていたのですが、「伝える」ためにいくらあの手この手を尽くしても「伝わら」なければ意味がないそうです。これには深く納得しており自分自身も大事な場面では心に留めるようにしています。(普段はきっと自分の発信したいことを発信しているだけというパターンが多くなっちゃってますが・・・笑)
次に、この本では聖書の話が数回出てきますのでそれに関する箇所で素敵だなと思ったことを。(※僕は聖書に関する知識はあまりないです)
「残念ながら、聖書に出逢ってもそんなことは全く変わらない。人はとても醜いもので、結局自分がいつも一番大事、特に僕などはその顕著な例だ。
しかし、今までと違うことは、同じ土台に戻れること。例えば、聖書には「喧嘩しても日が暮れるまでには仲直りしなさい」というような、とても素朴なフレーズもある。だから、「さっきはごめんね、言いすぎた」なんて言葉が心から出てくる。そして妻も謝る。こうして、喧嘩は終わり、気持ち良い一日がおくれる。」p186
「「みんな、聖書を信じなさい」などと言うつもりも毛頭ない。しかし同じ土台に出逢えたことに、心から、ありがとうと言いたい。
日々安らかに過ごせ、同じように喜び、悲しむことができるのだから。」p187
これを見て、宗教というものが栄えた理由が腑に落ちた気がします。
「ルールを共有する」とお互いに生きやすくなる場合があるんですよね。会社の社訓とか、ライブのコール?や、サークルの血の掟?にも通ずるところがあると思います。
人が集うとバックグラウンドが異なるから、こういうところはこうしようぜという取り決めがあると指針になるということですね。勿論それが弊害になる場合もあるとは思うのですが。
でも上記にあるように「喧嘩しても日が暮れるまでには仲直りしなさい」というルールを互いが知っていれば、スムーズに謝るきっかけとなるようなことができるのが素敵だなと思いました。
まだまだ書き留めたいことには溢れているのですがこれくらいにして。
この本は、前著「天国で君に逢えたら」の続作エッセイ?という扱いをとっておりいつかそちらも読んでみたいと思います。