昨日星を探した言い訳
「昨日星を探した言い訳」河野裕
(2020年8月24日 KADOKAWA)
<https://www.amazon.co.jp/dp/B08F9S7D68/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1>
なにか特別な夢を見た後に似ている。
自分の中で発見があって、腑に落ちたものがあって、どこか意地悪されたかのように疑問符も置いてかれて。
そんな夢から覚めたとき、なぜだか僕はこの夢のことをずっと覚えているような気がしている。
その感覚に僕は、甘えてしまう。記憶としてつなぎとめるという作業を怠ってしまう。でもそれは、ひどく大切でそっとしておきたいからだ。文字にして残すにしたって、符号的なものに頼ってしまうことになる、そんな切り取られた言葉に想いを窮屈に無理矢理閉じ込めてしまうのは違和感を覚える。
と、そんなことを考えたあたりで、あれ、どんな夢を見ていたのだっけと思う。
微睡みに溺れたまま場違いな切迫感とともに、夢の欠片を拾い集めようとする。
ただ、それは残念ながら叶わない。
手を伸ばしても宙を切るだけで夢の記憶に触れないことに僕はひどく焦る。
でも躊躇なく遠ざかる朧げな夢のイメージに対して、またねなんて言葉をかける強気な自分がいたりもするのだ。
負け惜しみもカラカラと廻ると、潔くなるのだろう。
なんてたって朝日も横目で僕のことを窺っている時間だ。
僕はこれから起きて、しょうもない沢山のことを考えなきゃいけないんだ。
夢はもう思い出せない。
けど、今日の始まりの心を少しだけ温かくしてくれてありがとう。
そんなことを、思って恥ずかしくなって布団をはがす。
そんな僕にとっての夢みたいな本に出会ってしまった。
「昨日星を探した言い訳」河野裕 著
出会えて良かった。心からそう思える一冊だ。
それこそ、今抱いた特別な想いを、ここにこうして書き殴ることしかできなくて。
ありとあらゆる隙間から僕が確かに感じていたはずの想いがこぼれ落ちていく。
そのことがひどく悔しく悲しくもどかしくなるけど。
でも、それでも、感じたこと想ったことを残したい。だから今、急き立てられるかのように言葉を並べている。
できるだけこの物語のエッセンスの一つ一つを僕は間違いなく噛み締めたい。
ただ、きっとそれはできない。単純に読み解く力が足りない僕が未熟なんだと思う。
別に自分が理解できるところまでを納得いく範囲で理解すれば良いんじゃないかと思うかもしれない。
それは、そのとおりなのだ。理解はできる。ただ、なんというか、それだと、非常にもどかしいのだ。
例えば、価値のあるものだよと教えてもらった絵画をどう見るかにも似ているかもしれない。
これは価値の高いものなのだという気持ちを抱いて見ることは出来る。
ただ、それだけだ。誰かが付けた本当とも言うべき価値を僕は見出すことができない。
そしてそのことに僕は焦燥感を覚える。
それはもっと漠然とした不安にも繋がることを無意識に感じているからなのかもしれない。
だって目の前にあるものの価値も分からないなら、目の前にないものの価値なんて到底分からないかもしれないじゃないか。
いくつも浮かぶ、かもしれない不安が僕を包むと、どこかのタイミングで諦めと共に霧散していくのも分かる。
その感覚も僕は、嫌いだ。
許してはいけない自分を許すことを、許している気持ちになって、許してはいけないなんて思っていたのが遠く感じるし、滑稽なように感じる。
全部全部本当に感じた気持ちなんだ。
でもいつかは結局忘れていく。そのことを僕は短くないこれまでの人生で知ってしまっている。
厳密に言うと忘れたことを覚えているのではなく、忘れたことを忘れたくなかったと縋る気持ちの所在なさを覚えているのかもしれない。
この本を読んで、何故かそんなことを心から考えさせてもらいました。
もう、まったくこんな小説に出会えるから読書って素晴らしいんだなって思う。
間違いなく僕にとって大切な1冊になりました。
きっとこの本を、数十年後かに読んで、受け取り方も変わったりするのだと思う。
ただ願うことなら、あのとき、こう思ったんだよなという記憶の断片は消えないでいて欲しい。
未来の僕には、出来ることなら初めてこの本に出会った時の僕の想いを尊重して寄り添ってくれると嬉しい。
それは、言うなれば、未来の僕が今の僕に周波数を合わせる作業に似ていると、そう信じている。