想い出のおもちゃ箱

本を読んだ感想や、ふと思ったことを書いてくブログです。自分の想いの整理や置いとく場所として使いますが、皆にも手を取って見てもらえたらすごく嬉しいです。感想もオススメも是非是非お待ちしてます。

愛がなんだ

「愛がなんだ」角田光代

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(2006年2月25日初版発行 角川文庫)

メディアファクトリーにおいて2003年3月に単行本発行

https://www.amazon.co.jp/dp/B009GPM4DQ/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 

あらすじ

「私はただ、ずっと彼のそばにはりついていたいのだ」―――OLのテルコはマモちゃんに出会って恋に落ちた。彼から電話があれば以後途中でも携帯で長電話、食事に誘われればさっさと退社。すべてがマモちゃん最優先で、会社もクビになる寸前。だが、彼はテルコのことが好きじゃないのだ。テルコの片思いは更にエスカレートしていき……。直木賞作家が濃密な筆致で綴る、<全力疾走>片思い小説! 解説・島本理生

  

 

こんな人におすすめ

・恋愛でひどい経験をしたことがある人

・恋愛で他人にひどいことをした経験がある人

・叶わない片想いをしたことがある人

 

先日映画を観にいきまして、とうとう原作も読みました。

先に結論です。両者とも大変に、素晴らしいです。しかし・・・とかもなくホントに素晴らしいなと思いました。

 

 

本を読み進めていく中で思ったのですが、だいぶ小説と違います。

出来事や設定としては些細な違いかもしれませんが、そのせい(おかげ?)で本と映画で与える印象は大きく違うと感じました。

 

 

それらの考察も含め出来る限り丁寧に自分と向き合って感想を残します。

感想を書くにあたって、「こう解釈しそうな人がいそう」とか「皆はこう思うだろう」という言葉には決して逃げず、いま、僕が感じて思ったことを書くことを約束します。

ので、良くも悪くも数多の大衆の中のたった一つの意見として、これを読んで、ふーんこういうことを思う人がいるんだと思ってくださったらいいなと思います。

(だから、反論するな!という意味では決してなく自分の言葉で素直に書きましたよということなのでむしろ意見等々は大歓迎です。笑)

 

 

ネタバレのオンパレードなので未読未視聴の方はご注意ください。

 

<映画>

1人で夜の会に行ったのですが、観終わった時に「ハハ・・」とわけもなく乾いた笑いがでましたよ。笑

 

映画を見続ける中で僕は、様々な感情を抱いていました。その感情にラベリングをするのは大変難しいのですが、強いていうなら『祈り』に近いのだと思います。

 

登場人物の一人一人が「幸せになってほしいっすねぇ」という切実な祈りだったのですが、理想でしかないんだなと溜息をついてしまいそうでした。

 

この映画のずるいというかやりきれないところは、悪者がいない(または全員が悪者)ことです。これは本当に、ただただ作品の見せ方をどうするかということなので、今泉監督の監督力に脱帽としか言いようがありません。すごすぎです。ブラボーです。

分かりやすく責任を誰かにこすりつけることができないし、きっと世の中そういうものだよなぁぁぁと、視聴者に無意識に気付かせてしまう点がこの映画の反響が大きい一つの理由かな、と思っています。

 

【守のテルコへの想い】

個人的には守の気持ちが分かるのでテルコを見ると、「ぁぁ…」という気持ちになっていました。

こんな風に守を想っているのだから幸せになってほしいというのもある一方で、そんなふうに想っていたら幸せになれないよというのが分かってしまう。これが観ていてきつかったです。

 

守の何が良くないって、都合よすぎるくせに、人としてひどいことをしていると思うのに、二人っきりでいるときは優しいんですよね…。

テルコと過ごす時間を普通に楽しんでる。けど、5週先回っちゃうところとか含め自分に矢印を向けられた瞬間それが「気持ち悪い」と思っちゃう。

この「気持ち悪さ」、なんなんだろうなと思いました。

 

僕の解釈で言うのならそれは、相手が尽くせば尽くすほど、自分とは違うなってことを痛感させられるっていうのがあるのではないか、と。

相手の愛の重さが自分のより重量があることに「うわ」って思っちゃうんですよね。

「そんな俺は愛せないぞ」と。「同じことを俺に期待するな」と。

勿論、相手が何か見返りを求めるためにやっている行動ではないだろうということも理解はしているんですよね。

でも、奥底では期待している(というかそういうことを返してあげたほうが喜ぶ)んだろうということも分かってしまう。

 

自由気ままに接していたのに、この「前の分もあるし何かしてあげたほうが良いんではないか」という思いが自然と出てくる、そしてそれに気づいているのに何もやってあげないのも少し胸糞悪く、勝手に自分が悪者になった気がしてしまう。

ここで逆に何かしてあげたとしても相手は更に尽くしてくるだろうし、また何かしてあげるかしないか考えないといけないという何とも自分本位な負の連鎖に陥る。

(意識的に上記の事を具体的に思い浮かべられているわけでは勿論ないだろうが)そういう一切合切が相まって「気持ち悪い」と守はテルコに対して思っているのではないかなぁ。

 

守にとってテルコは気の良い(傍から見たら都合の良い)異性友達です。キライとかではないと思います。

両者が文句ないならそれでいいじゃんって考えでしょう。テルコも別に文句を言ってくるわけでもないし、今の関係に不満があるわけじゃないだろうと思ってる節があります。

仲原くんが葉子に求めている<寂しい夜で他に誰もいないとき「あ、仲原いんじゃん」って呼ばれる存在>がまさに、守にとってのテルコなんでしょうね。

 

これは主観的断言になるのですが、、、

守は、テルコが守の事を好きなことを理解しています。

ただ、テルコが守に告白することはないということを(意味もなく)確信しています。

「本当に好きなら告白してくるはず、でもしてこない」から守は、相手が好意を寄せてくれることに気付きながらそこまでではないだろうと都合よく解釈して、あくまで対等な異性として付き合っています。なんならたまにはあっちからも誘ってきたら良いのに~、くらい考えてそうです。

(ただ、テルコからしたら嫌われるのが怖くて自分から誘うことはできないし、告白なんてもってのほか。もし仮にテルコが守に告白したら、「え、なんで」ってなって振られるでしょう)

 

守という人間は、自分の程度を弁えていないんですよね、ほんとに。

自分の事を好いてくれる人がいたら、その人よりも素敵な人が自分にはいるのではないかと他に手を伸ばしてしまう。

その一つの基準として、自分に振り向いてくれない人というのもあるのでしょう。でもきっと相手が振り向いてしまったらそれに満足してまた別の振り向いてくれない人を探すんだと思います。

そんなことしたってキリがないのに…。

ただ、守も好きでそういう人間でいたいわけじゃないのよ…。

皆に反論されまくりそうですが、僕はそう守を擁護してあげたいです。。。彼に幸せな未来が訪れますように。。。

 

 

【仲原と葉子】

仲原、好きです。ほんとに。

考えて考えて、それでもやっぱ葉子が好きなんだなぁと思わされました。何か背伸びしてでも葉子と一緒にいたいけど、自らの「好き」の感情に意味を見出しきれていない…。そのことがひどく切ないです。ただ、やっぱり、仲原の「好き」に葉子も意味を見出してはいないんだろうなぁと最後のシーンを観るまでは思っていたので、作中結構つらかったです。

 

終盤、仲原は葛藤の末に自ら葉子のもとを去ることを決意します。

あーほんとに沢山悩んだんだろうな。それで最後まで自分のためじゃなくて葉子のためを想ってたんだろうなというのが伝わります。いくら口では自分が辛いっすといっていても、仲原にとって一番辛いのは葉子の下を離れることだよなぁ。

そんな想いを抱えながらコンビニでテルコと語るシーンを見ていました。

 

なので、心優しい仲原が最後に地面に唾を吐きつけるのは、やりきれない気持ちになりましたね。。。

 

そして原作では描かれていないのですが、映画では、仲原の写真の個展に葉子が訪れます。

葉子が写真を1枚1枚眺めていく姿を、緊張しながら見つめる仲原。

そしてついに葉子は仲原にとって特別な1枚の写真の前で足を止めます。

それは月の光できた影に縁どられた葉子の淡い後ろ姿。

この1枚はきっと仲原なりの愛の切り取り方でもあるのだと思います。

 

そしてこの写真を見た葉子はじっくり時間をかけた後こちらを振り向きます。

その時の慈愛に満ちた顔。

 

この瞬間僕は、「あーあ仲原、可哀そうに…。」と半分笑ってしまいながら強く思いました。

そんな自分にとっての愛の形を、好きな人にここまで優しく肯定されてしまったら、背けていた自分の気持ちをこんな風に受け止められてしまったら、絶対また葉子のことがもうどうしようもなく好きになってしまう。

もうこれは、恋愛なんて甘ったるいものではなく、呪いなんじゃないかなと思いました。今泉監督はなんと素晴らしく、それでいて残酷なシーンを追加してしまったのでしょうね。

 

ただ、これが悪いことなのか、それとも良いことなのか。それを判断しろというのは至極難しいんです。

でも、でも、ほんとうに幸せになってほしいすねえ。

 

 

<小説>

小説版の違いはいくつかあります。上でもいくつか挙げているのですが。特にこれは大きな違いだなと感じたのは

 

①すみれさんの年齢が29歳(テルコは28歳で守は27歳)

※もしかしたら映画中に明示されていたのかもしれないけど、映画を観たときは勝手テルコ(28くらい)≦守(29くらい)≪すみれさん(30後半)だと思っていた

②山中佳乃という高校の時の友達と一度だけ飲みに行く

③伊豆の旅行にナカハラくんがいない

④ナカハラ君は写真好きでもないし個展も開かない

 

というところですかね。勿論もっと細かくあげればあるとは思うのですが。

 

 

①に関して、

本を読みながらびっくりしました。え、すみれさん思ってたより若い、と。

若いという設定だからこそ本の中では僕はすみれさんを「振り向いてくれないお姉さん」の延長線上に捉えられました。(映画だと江口のりこさんが演じていて「別次元の存在」でした)

そう考えたときに、テルコからしたらすみれさんは年齢的にも誤差だし手が届く範囲に感じました。勿論風貌や性格は違うし、そのことにテルコは諦めを抱いているのは変わらないのですが。

 

映画では、すみれさん登場時から半ば暗示的に絶対に守の手に負えない巻があるので映像作品の画というのは、改めてすごいなと感じました。

 

似たようなことで、小説だともうきっつきつの女性である葉子さんは、映画において深川麻衣さんが演じています。そのことで葉子への悪い印象を少し柔らかくしていて上記に挙げた、「誰も悪者じゃない(または誰もが悪者)」感のバランスを調整してる印象を受けました。

 

改めてキャスティングというのは監督の創りたい世界観において本当に重要な要素なのだなと思いました。

話がそれるのですが、これってオーディションの時に原作読んでガッチガチにキャラを固めていっても監督の意向として、もうすこし雰囲気かえたいということがあるかもしれないってことなのだなぁと。

もし、そうなら、自分には合わないからとオーディションすら受けない人がいたら勿体無いなぁと思いました。

 

でもきっと、同じようなことは世の中にもたっくさん溢れているんですよね。「自分に似合わないから挑戦しない」というのは何においても可能性を狭める選択なのかもしれないと痛感しました。(似合わない挑戦をすることは疲れるという気持ちも分からないでもないですが、自分が目指す人間像として、そういった理由で無意識に諦めたくないなぁと思いました。自戒です。笑)

 

 

②山中佳乃という高校の時の友達と一度だけ飲みに行く

テルコは、守としばらく会ってもらえなかった時期に、山中に久々に誘われて飲みに行きます。ですが、山中は本を通してこの一回しか出てこないきません。それにも関わらず出てきたことによる功績はとても大きいと僕は思っています。

功績1:テルコは自分の現在の状況を客観的に友人に話す機会を得る

功績2:「彼氏が女を立てるのが当たり前」になるようしつけるべきという強い持論を山中はテルコに言うが、全く意に介さず、むしろ守への想いを膨らませる

 

愛がなんだは恋愛の話なのでどうしても閉鎖的なのですが、そうではなく世界とつながっている証拠として高校時代の友達が出てくるのは現実味を持たせます。そういった意味でもこの山中の存在は重要で、テルコがそれでも守を好きなことを浮き彫りにするシーンでもあります。

ただ、きっと映像にするにあたっては、彼女を出さないことで登場人物を少なくしてそれぞれの人間像を深く掘り下げたのだなというのも感じました。お見事です。。。

原作小説が実写化されることで難しいのはまさに、この登場人物の取捨選択なんだなぁと勉強になりました。そういえば小説はテルコが元カレのシーンを想起するのもありましたがこれも映画はなかったのはそういうことですね。

 

 

③伊豆の旅行にナカハラくんがいない

④ナカハラ君は写真好きでもないし個展も開かない

 

これですよ。そもそも本だと「ナカハラ」君なんです。これ、テルコが呼ぶときも葉子が呼ぶときもカタカナ表記です。

その理由としては、

漢字すら知らない=個人情報を詳しく知りたいほどの関心がない

ことを表しており、ナカハラという人物が男として興味ある対象でないことを示唆していると推測します。恋愛小説で男が複数人出てしまうと、もしかしたらそっちに乗り換えるのではという読者の意識を、「この人にたいして何も興味抱いてないですよ~」と示すことで、テルコの矢印がまっすぐ守に向いていることを表しているんですね。(違ったらごめんなさい)

 

映画を見て仲原がとても好きになっていたので小説での扱いとの違いにびっくりしました。

外国の王様の話(わがままな人が悪いのか、わがままにさせてしまった人が悪いのか)も、映画では仲原くんがしゃべっていたのに、小説ではテルコが元カレを回想しながら思い出しますし。 

 

【総括】

これは小説でも映画でも言えることなのですが、歪なのにバランスが良い世界というのがここにはあります。先日中学の時の担任の先生とお会いしたときに「普通な人なんて世の中にはいないんだよ」と仰っていたのがこの作品を見てシックリきました。

 

登場人物一人一人が叫びだしたくなるような状況下にいるからこそ「愛なんだ」という題名は強くてピッタシですよね。ほんとに。こんな恋愛は不毛だと思いつつも、ちょっとだけ羨ましかったりもしてしまいます。あー怖い。

 

きっとこの作品の事は一生忘れないと思います。

また、5年後、10年後に見てみてその時にどう思うか楽しみです。