その白さえ嘘だとしても
「その白さえ嘘だとしても」河野裕
(2015年6月1日初版発行)
<https://www.amazon.co.jp/dp/B017R193C0/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1>
あの頃の僕らは、誰かのヒーローになりたかった。
クリスマスを目前に控えた階段島を事件が襲う。インターネット通販が使えない―――。物資を外部に依存する島のライフラインは、ある日突然、遮断された。犯人とされるハッカーを追う真辺由宇。後輩女子のためにヴァイオリンの弦を探す佐々岡。島の七不思議に巻き込まれる水谷。そしてイヴ、各々の物語が交差するとき、七草は階段島最大の謎と対峙する。心を穿つ青春ミステリ、第2弾。
こんな人にオススメ
〇自身の行動指針が分からない人
〇何か一つくらい報われてもいいじゃないかという気持ちがある人
〇言葉のもつ意味じっくり考えたい人
「いなくなれ、群青」に引き続く階段島シリーズ2作目。
相も変わらず河野さんの文章は、人と向き合わせてくれるなぁと思います。
今回大きくスポットが当たるのは、主人公七草のクラスメイトである佐々岡と水谷です。
佐々岡の、誰にだって、いつだってヒーローを目指してもいいじゃんかという、覚悟と諦めのチェック模様な気持ちは、それを考えている人にとって暴力的に響くと思います。
ただ、僕にとっては今回、水谷の心情のほうが理解すれば理解するほど心を揺さぶられました。
というか、読みながらイライラしました。それもけっこう。笑
なんで、こんなイライラするのだろうと思えば思うほどなんかややこしくなってきたのでここで勝手に整理させていただきます。笑
そもそもとして水谷という人は、自我が希薄なんだと思います。いや、厳密に言うのであれば自我を成り立たせる要因としての他者の割合が高すぎるのかもしれません。
それはもう徹底して自身の存在理由を内ではなく外に求めています。
人間という生物の社会性を考えたら勿論これは批判されるべきではないのですが、水谷の場合やりすぎなのかもしれません。
基本的に自身の感情より先に、どのように振舞えば、相手が喜ぶか、場の雰囲気が収まるのかそれはもう丁寧に丁寧に実践していくような少女です。
そして彼女の惜しむらくはきっと、そのような他者からの求めに対して敏感に察知できてしまう賢さが備わっていることなのだと思います。
きっとここまでなら、僕はまだ水谷に対して、ニュートラルな感情で接することができると思うのです。
だけど、水谷は、そんな自身の行動に当事者意識がない。それがなんか僕はどうしようもなく嫌なんだと思います。
こう振舞うのが世の中、当たり前(または円滑に上手くいく)でしょう。
だから私はそれに従っています。
なにか水谷の思考・行動のすべてにそういった被害者面を感じます。
そう、きっと僕はそれが気に食わないんでしょうね。
自我の規定に他者を用いるのは良いのです。ただそういう人は、そういった性質を自覚したうえで、自身の振る舞いに意味を見出し、楽しむ余裕があってほしい。好きだから他者が喜ぶことをしていると。他者の笑顔が自身の笑顔の根源だと。
一方、水谷は「なぜ、皆当たり前のことが出来ていないのか?こういうときは他の人の気持ちを考えたらこう行動すべきだろう」という自己マニュアルに囚われっぱなしなんです。他者からのお礼が、自分が正しい行動をしたことに対する丸付けでしかないんですよね。感謝をしてくれている人の感情にまで目が行き届いていない。
きっと水谷にとって世の中は生きづらいはずです。だって彼女の思想通りに行動する人は聖人君主のみでそんな人はこの世に存在しない。だから人を見るたびにフラストレーションがたまるに違いなく、他者への評価が減点方式なんです。世に失望していくしかない。
「人に合わせてばかりだと、自分にできることがわからなくなるよ」p52
他者基準の最適解を求めてきた水谷にとって上記の由宇の言葉は、アイデンティティーを崩壊させるのに十分なパワーを秘めています。
多分ここでいう「自分にできること」は「自分が一人になったときに何がしたいのか」という重さも孕んだ問いでもあるんだと思います。
で、僕は、きっと水谷なんだと思います。それも由宇になったつもりの水谷です。
つまり、自己の軸に照らし合わせて行動の是非を決めている、と表層では思いたがっているものの、深層では他者の目を気にして、この状況ならこれが最善だよねと外にビクビクしている。
僕はきっとこれにイライラしてたのかもしれません
掘り下げて考える前からそんな気はしてましたけどね。
結局僕の場合、たいてい人にイライラする時って自分の理想とは異なる相手の姿を見て、自分自身も出来ていないことに気付くのが原因なんです。
で、「自分はもっと上手にできているぞ」という思いと「いやいやそんなことないのは自分が一番わかっているんだろ」という思いが戦い合ってムカムカする。
だから河野さんの本って読むのが怖いんですよね。毎回読み始めてから思い出すんですけど。笑
水谷論議はこれくらいにして。文中の表現で特に好きだったものに関するものについて話したいです。
もちろん努力を続けた人には本心から拍手を送るけれど、でもなにかを諦めた人を、悪者のようには扱いたくない。P318
これを聞いて思ったのは「褒める」という行為の鋭利性です。
突然ですが問題です。
A, B, Cの三人がいたとします。AがBに対して「君は頭が良いね」と誉め言葉を言いました。このときCの心情を答えなさい。
というものなのですが、どのように思われますかね。
勿論、C君の性格に大きく寄るところなのですが、僕が仮にC君だとすると、ちょっと傷つくんですよね。
誰かを評価するということは必ず相対的だと思っています。A君がここでB君に対してそう言ったということは、あぁ僕(C君)はB君以下なんだなぁ、と。
日常生活でこういうことって多々あると思うんです。誰格好いいと思う―?と聞いて「○○君かなぁ」なんてなるのはその典型で、△△君は○○君に勝手に敗北するわけです。
それとちょっと似ているなと思って。
努力を続けた人を純粋な気持ちで褒めたい気持ちは分かります。
ただ、努力を続けた人を持ち上げることでそれ以外の人は必ず低いところに位置してしまいます。この低い人たちが「努力を怠った悪者たち」とカテゴライズされる危険性は常に承知しながら「褒める」ということを考えなくては、と僕は常日頃思おうとしています。
もしかしたら矮小な問題かもしれませんが、繊細な心の揺れ動きを見逃したくないという気持ちがあるのです。
最後、僕の決意表明のような形になってしまったのですが(笑)、階段島シリーズ怒涛の展開で今後どこに着陸するのか本当に楽しみです。
何とかシリーズ完結編が出版される前に読み追いつかなくては…!!